最高裁判所第三小法廷 昭和28年(オ)681号 判決
上告人(原告) 大塚勇次郎 外三十九名
被上告人(被告) 熊本県選挙管理委員会
一、主 文
原判決を破棄し本件を福岡高等裁判所に差し戻す。
二、理 由
記録に徴するに、被上告人熊本県選挙管理委員会は、昭和二六年四月二三日行われた熊本市議会議員の選挙の効力に関し、同二七年七月三日付訴願裁決をもつて、同市第七開票区に属する第三八投票所の選挙の執行に選挙の規定違反があり、結果に異動を及ぼす虞があるものとして右第七開票区の選挙を無効とし、上告人等は右訴願裁決の取消を求めて本訴を提起したが、原判決はその請求を棄却したのである。しかるに、昭和二八年八月法律一八〇号により公職選挙法二〇五条が改正され、選挙の一部無効を判決する場合においては当選に異動を生ずる虞のない者を区分することができるときは、その者に限り当選を失わない旨をあわせて決定し、判決しなければならないこととし、右改正法附則一項は、右改正規定は改正法施行の日に現に裁判所に係属しているものについても、適用することを規定しているので、本訴においても、裁判所は、当選に異動を生ずる虞のない者の有無を判断し、若しありとすればその者について当選を失わない旨を判決しなければならないことになつたのである。このような判断を加えていない原判決は結局違法に帰したものといわなければならない。そして右判断については右改正法二〇五条三項四項の規定する事実を確定することを要するから、民訴四〇七条により、原判決を破棄し、本件を原裁判所に差戻すこととし、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。
(裁判官 井上登 島保 河村又介 小林俊三 本村善太郎)
上告代理人高野弦雄、同石井辰雄、同樋口俊二の上告理由
第一点 原判決は、当事者の主張せざる事実を認定し、且つ訴訟における主張責任の法理を誤解し、釈明権不行使、審理不尽の違法がある。
原判決事実摘示によれば、『原告等訴訟代理人は、(中略)その請求原因として、原告等は、いずれも昭和二十六年四月二十三日執行の熊本市議会議員一般選挙に立候補して当選した者であるが、右選挙に際し、同市第七開票区に所属する第三十八投票所の候補者氏名等の掲示中、前田宣雄(落選)の分が、掲示の当初から選挙期日まで脱落していたことが発見されたので、右前田はこれを理由として単独に、及び落選候補者角田時雄、中島小太郎、出田伊一郎、宮崎熊次郎、西軍蔵、木部次郎、石村辰已、前田辰蔵外十名は、右前田の氏名掲示の脱落その他七項の理由を掲げ、それぞれ熊本市議選挙管理委員会に右選挙の効力に関し異議を申立てたところ、右異議申立はいずれも却下された。そこで前田宣雄及び前記角田時雄等八名以外の落選候補者十名は、同委員会の決定に承服して訴願の提起をしなかつたが、角田外七名及び異議申立をしなかつた落選候補者牧野宗吉、坂田大、松尾清次郎、大村宇八郎合計十二名は、被告に対し訴願を提起したところ、被告は、候補者前田宣雄の前記氏名掲示の脱落は、選挙の規定に違反し、且つ選挙の結果に異動を及ぼすおそれがある、と断じ、前記選挙中第七開票区に関する部分を無効とする旨の裁決をなし、昭和二十七年七月三日その旨を告示した。(中略)と陳述し』とし、これに対し『被告代表者は(中略)答弁として、(中略)本件選挙に際し原告等主張の第三十八投票所における候補者氏名掲示中、前田宣雄(落選)の分が掲示の当初から選挙期日まで脱落していたこと、及び右前田宣雄外原告等主張の落選候補者が右氏名掲示の脱落等を理由として、それぞれ熊本市選挙管理委員会に選挙の効力に関する異議を申立てたが、いずれも却下されたこと竝びに原告等主張の角田時雄外七名、及び牧野宗吉外三名合計十二名の訴願に対し、被告が原告主張のような理由で、本件選挙中第七開票区に関する部分を無効とする旨の裁決をなし、原告等主張の日、その旨を告示したことは認める。(中略)と述べた』となしている。
言うまでもなく本件訴訟は、原告等が被告に対し、被告の昭和二十七年七月三日告示の前記裁決を違法として、その取消を求める訴である。この場合、原告等(上告人等)としては、被告の裁決が存在すること、及びその裁決の内容、並びにその裁決が違法であることについての主張責任があるだけで、これに対し、選挙無効の裁決を有効とする被告側において、その裁決の内容たる選挙の規定に違反する事実の存在、及び右事実が選挙の結果に異動を及ぼすおそれがあることについての主張並びに立証責任を有するものと解すべきである。
然るに前記原判決の事実摘示は、不当にもかえつて、原告等側において選挙の規定に違反する事実の存在、すなわち、昭和二十六年四月二十三日執行の熊本市議会議員一般選挙に際し、同市第七開票区に所属する第三十八投票所の候補者氏名掲示中前田宣雄の分が、掲示の当初から選挙期日まで脱落していたとの事実を主張したものとなし、被告側がこれを認めたとした結果、原判決理由中事実認定において、右前田宣雄の氏名掲示の脱落については、当事者間に争がないと判示している。
また、原告等訴状請求原因第二項を見ても『処が同市第三十八投票所の候補者氏名掲示中前田宣雄分が選挙終了迄脱落して居たことを理由として前田宣雄は単独に云々』との記載はあるが、これは単に右前田等の熊本市選挙管理委員会及び被告に対する異議申立及び訴願の内容が、前田宣雄の氏名掲示の脱落を理由とするものであつた旨の記述に過ぎず、これをもつて、原告等が、右氏名掲示の脱落を先行的に自白したものと解することは到底できない。
更に被告提出の答弁書答弁の理由冒頭は単に、『原告主張の請求原因中一及び二の事実は認める』と記載してあるだけであつて、仮りに原告等の主張が、氏名掲示脱落の点において先行的自白になるとしても、右答弁がこの自白を明確に援用する趣旨においてなされたものでないことは明らかであるし、逆に被告側から本件氏名掲示の脱落を適法に主張した事実も認められない。従つて被告側の主張のないことについて、これを明らかに争わないものとして取扱うこともできない筈である。
本件訴訟において、右前田宣雄の氏名掲示脱落の事実は、判断の大前提をなすべき重大な事項であるに拘らず、前記引用の如き不明確な当事者の主張並びに答弁に対し、原審においては全く釈明をなした形跡もなく(若し原審において原告に対し、氏名掲示の脱落を認めるか否かの釈明がなされておれば、原告側としては当然右事実の存在を争い、これに対し被告側においてその事実を立証しなければならなかつた)、突然原判決の理由において、右事実が当事者間に争ないと判示したことは、訴訟において当事者の主張せざる事実を認定し、且つ訴訟における主張責任の法理を誤解し釈明権不行使、審理不尽の違法あるものに帰し、原判決はこの点において破棄を免れないものと信ずる。
第二点 原判決は公職選挙法第百七十三条乃至第百七十五条(但し本件選挙執行当時の)及び同第二百五条の解釈を誤つた違法がある。
原判決の理由によれば、『しかし公職選挙法第百七十三条乃至第百七十五条の規定により、公職の候補者について、その氏各等を当該選挙の投票所等に掲示させることとしたのは、法が選挙公営の立場から、候補者の氏名等を一般選挙人に周知せしめ、選挙人の意思を誤なく選挙の結果に反映させようとする趣旨に出たものであつて、これらの規定が、訓示的規定に過ぎないものとする格別の根拠はないのであるから、本件選挙において、第三十八投票所の氏名等の掲示中、前田宣雄の分のみが脱落していたことは、明らかに選挙の管理執行について公正を欠くものであり、同法第二百五条にいわゆる選挙の規定に違反するものといわなければならない。』と判示されている。
しかし、公職選挙法第百七十三条所定の公職の候補者の氏名及び党派別の掲示は、選挙当日における投票人の氏名記載のあやまりを無くするための後見的な手続であり、一の訓示規定に過ぎないものと解すべきである。
このことは掲示の方法について別段施行規定の定めがなく、県、市選挙管理委員会の定めるところに一任していることに徴しても明らかである。
現に本件選挙当時、被上告人熊本県選挙管理委員会が、昭和二十六年三月三十日告示第十一号をもつて定めたところによれば『第四十六条 天災その他避けることのできない事故その他特別の事情があるときは、掲示の手続は中止することが出来る。』としてあり、掲示の手続は必ずしも選挙執行上必須の要件ではないとの見解を示している。(右告示は参考書類として本書末尾に添付する。)
更に、投票所における候補者の氏名者の掲示が、訓示的、後見的規定に過ぎないと解すべき根拠として公職選挙法第八十六条第八項が右投票所における掲示とは別に、候補者の届出又は推薦届出受理により、選挙長において候補者の氏名、住所、政党及び生年月日を告示すべきことを定めていることが挙げられる。すなわち、法が選挙公営の立場から、選挙執行管理機関たる選挙長をして、一般選挙人に候補者の氏名等を周知せしめる(市議会議員選挙の場合正規の且つ唯一の)手続は、本条において規定するところであり、この手続は選挙執行に関する重要な効力規定であると解すべきであるが、法第百七十三条の掲示は個々の投票所における投票人の便宜を考慮し、念の為に候補者の氏名を掲示させる旨の法意でありこのことは法が掲示の期間を一定していること(現行法は本条を改正し、掲示の期間を短縮したが、これによつて見ても投票所における氏名等の掲示が一に投票の便宜のみを考慮した後見的手続であることを察知するに十分である。)並びに前掲被上告人告示第十一号中投票所における掲示の様式を定めた、第十八号様式の備考として『党派別及び氏名は墨書しふりがなを附するものとする。』となし、第八十六条の告示と異り住所、生年月日は記載せず、簡略に投票記載のあやまりをなくする意味でふりかなを附するものとしている点によつても、窺い知ることができる。
なお原審乙第一号証、被上告人の裁決書等によれば、角田時雄外十一名の被上告人に対する訴願の理由中には、本件第三十八投票所における前田宣雄の氏名掲示の脱落の外、第二十五投票所における氏名掲示が選挙当日、投票開始の当初より約四時間にわたつて、その殆んど全部が剥離破棄されていたとの事実を掲げており、果してそうだとすれば、結果的に見て、第三十八投票所における前田候補の氏名掲示の脱落よりも選挙の結果に異動を及ぼすおそれが遙に大であると思料されるに拘らず、これに対する被上告人の裁決は、『第二十五投票所の氏名掲示が剥離破棄せられていた点については、調査の結果、本来規定通りに掲示されたものが、第三者によつてなされたものであり、(中略)市委員会の管理執行の違反と判断することはできない。即ち不可抗力のものと認め、選挙の規定に違反するものではないと判断する。』と立論している。しかし、市委員会の故意過失の存否は別として、現実に法の規定に反する事実が存在し、そのことにより選挙の結果に異動を及ぼすおそれが多分に予想せられるとすれば、右第二十五投票所の氏名掲示の剥離等も同じく選挙を無効とすべき事由としなければならぬ筈である。被上告人が、それにも拘らず、第二十五投票所の瑕疵をもつて選挙を無効とすべき事由にあたらないと判断した所以は、もともと投票所の氏名掲示は、訓示的、後見的なものであつて、止むをえざる天災或は第三者により又はこれと同視すべき事務上の些細な過失により瑕疵を生じても、このため選挙の自由公正を阻害しない程度の軽微のものであれば、いまだもつて選挙の規定に違反したものと云うことはできないとの解釈に基くものであり、従つて本件第三十八投票所における瑕疵もまた同様に選挙の規定に違反しないものと判断すべきものであつたのである。殊に本件の瑕疵は、その影響を及ぼす範囲も極めて狭く、その態様から見ても到底選挙の自由公正を阻害するものと断ずることはできない。
次に、公職選挙法制定以前の地方自治法には、投票所における候補者(但し都道府県知事を除く)の氏名等掲示の規定が存在しなかつたのであるが(衆議院議員選挙法並びに参議院議員選挙法には存在した)これは地方公共団体の議会議員の選挙においては、選挙区の範囲も狭く候補者の選挙人との関係が密接であるため、投票記載のあやまりを無くするための掲示等はその必要を認めなかつたがためであり(この点は現在においても同様であることは、原審における証人岡本安二郎の証言並びに甲第九号証の一乃至四一に徴して明らかである)更に新たに制定された分職選挙法第百七十三条第二項においても、衆議院議員、参議院議員等の氏名掲示が三箇所以上五箇所以内の箇所にしなければならないとされるに対し、市議会議員の場合は僅か一箇所をもつて足るとされていることに照しても、氏名掲示そのものが市議会議員選挙の場合はさして重要性をもたないことを物語るものと云わなければならない。
最後に仮りに本件選挙執行上の軽微な瑕疵をもつて選挙の規定に違反し、選挙の結果に異動を及ぼすおそれがあるものとして一部再選挙を執行する場合は、甚だ不合理な結果と著しく不公正な弊害とを招来することを予測しなければならない。すなわち、本件において一部再選挙を執行せんとする趣旨は第七開票区に属する第三十八投票所における前田宣雄の氏名掲示の脱落なかりし場合に現れたであろう投票の結果を復原せんとすることに存すると云わなければならぬ。しかるに、原審において上告人等が主張したように、本件選挙執行当時と現在とでは第七開票区における選挙人の異動が甚だしく(この点参考書類として一部再選挙の不合理並びに影響する点についてと題する書面及び調査表を本書末尾に添付する)再選挙につき一人一票の原則違反による無効が考えられるのは、もとより、候補者側においても、織数百八十四名中死亡者、転出者、立候補欠格者等があり、また再選挙によつても当選の見込がないため或は残存任期僅か一年に過ぎないために立候補を断念、辞退する者が相次ぎ立候補者織数が前回に比して激減すること必定であり、その結果第七開票区に密接な関係を有する候補者のみが著しく有利となる反面、然らざる候補者は極めて不利となり、一部再選挙は当初の目的と全く背馳し、いたずらに困乱と不公平を惹起する結果となるのである。従つて本件において、選挙執行上の瑕疵をもつて選挙の規定に違反するかどうか、を判定し、更に進んで選挙一部無効を宣言するに当つては、如上のような再選挙により招来する結果を慎重に考慮し、当初の瑕疵により生じた弊害と、その後の事情の変化により、再選挙の場合生ずるであろう弊害とを比較考量し、相対的に概念を決定してなさなければならないものと確信する。しかるに原判決のようにいたづらに法文の末梢に拘泥して行政法規の条理に違背し、選挙の実情に即せず、社会の現実に游離した不当な再選挙を強行せしめ角をためて牛を殺すの結果を招来するような解釈は、明らかに法規の解釈を誤つたものと云わねばならない。
なお、投票所における氏名掲示を、厳格な効力規定と解するときは、狡猾な候補者は自己の氏名票を剥ぎ取り、写真を撮つて後日の証拠となし、当選すればその儘で済し落選すればこれを理由として選挙の効力を争うこと必定となり、多数の投票所において多大の労力と費用を費し、昼夜を分たずこれをいちいち看守しなければならない結果となる。法はかかる労力と費用とを予想してまで、投票所における氏名掲示を完全無欠の状態で強行せしめようとする趣旨において規定されたものと解することはできない。
以上詳述した如く、原判決は公職選挙法第百七十三条乃至第百七十五条の解釈を誤り、些細な事務上の過失にすぎない前田宣雄の氏名掲示の脱落をもつて選挙の規定に違反するものとなし、更に選挙の実情を全く顧ることなく、同第二百五条の解釈を誤つて、本件選挙を無効であると判断した違法があり、到底破棄を免れないものと確信する。
第三点 原判決は、経験則に違背したか、または採証法則を無視して事実を認定し、公職選挙法第二百五条の適用を誤つた違法がある。
原判決は、本件第三十八投票所における前田宣雄の氏名掲示の脱落を選挙の規定に違反すると断じ、これをもつて選挙の結果に異動を及ぼすおそれがあるものと判示しているが、仮りに右手続の瑕疵が選挙の規定に違反するものとしても、次の理由によつて、選挙の結果に異動を及ぼすおそれはないものと云わなければならない。
(イ) 本件における投票所の氏名掲示の脱落は、熊本市四十八投票区中第三十八投票所のみ僅か一箇所のことに属し、しかも、候補百八十四名の多数中、前田宣雄の分だけである。また第三十八投票区の選挙人は三八五一人で、熊本市全選挙人数の僅か二・七パーセントにしか当らない。(原審訴状請求原因第六項参照)
従つて、右第三十八投票所の手続の瑕疵は熊本市を一選挙区とする同市議会議員選挙の結果には、殆ど影響を与えないものと考えられる。
なお、本件と類似する事案として、最高裁昭和二三年(オ)第一三一号同二四年七月一三日大法廷判決の場合は、候補者氏名、党派一覧表中候補者一名の氏名を遺脱したものであるが、これは選挙区全般の各世帯に配布されたものであつて、選挙に関する事項を一般選挙人に周知せしめる効果は甚だ顕著であり、従つてこれが手続の瑕疵も、選挙の結果に異動を及ぼす公算が大であるが、本件のような選挙区中の極めて狭小な一部分について生じた瑕疵をもつて右事実と同様に選挙を無効とすべきものとまで解することはできないものと考える。
(ロ) 本件氏名脱落の掲示場の情況は原審における検証の結果並びに甲第十号証の一、二により詳かであるが、これによれば、右氏名掲示は、投票所入口より右に一尺一寸距てた処より、十五尺三寸の長さで、地面より三尺四寸乃至六尺二寸の高さで、総数百八十四名の候補者を四段に掲示したものである。
この場合、投票所に向う投票人によつて、投票所入口に近い部分の掲示は別として、十五尺三寸も右方に距る部分の氏名掲示までいちいち詳細に確認することは、実際問題として不可能であり、氏名脱落の発見も容易な業ではない。
この点も前掲最高裁判例の事案の如く、各世帯別に配布されたものを卓上において精読できる場合と同日に断ずべきではない。
然も本件第三十八投票所における氏名掲示は、学校正面玄関より投票所に到る通路には面せず、投票所入口の右脇になされているため、その掲示場はむしろ投票終了者の帰路にあたり、且つ氏名掲示の順番は抽籖で定められ雑然としているのである。その結果投票に向う投票人にとつて、氏名掲示を識別することはますます困難な情況となつていることに注意しなければならない。なお原審前田証人の証言中今村某の氏名掲示の脱落発見も恐らく投票の帰路においてなされたものと推測される。
従つて第三十八投票区における投票の帰趨が前田宣雄の氏名掲示の脱落によつて左右されることは殆どありえない事柄に属する。
(ハ) 本件は熊本市議会議員の一般選挙であるが、原審岡本証人の証言によれば、候補者の選挙運動は『個人演説会は、公営の施設を利用する場合は届出を要するが、その他の場合は自由であり、街頭演説も行われ、候補者の氏名連呼についても、候補者が自動車で廻つて連呼し、更に運動員がメガフオンで市内を連呼して廻り(中略)候補者のポスターにしても市選管が検印したのが各候補者につき五百枚宛であり、(中略)一投票区に十二枚貼られている。更に有料の郵便葉書が各候補者につき五百枚宛撒布されており、戸別訪問にしても候補者に限り、親戚、知己その他密接な間柄にある処を訪問することは事実上許されており、非常に徹底して行われた。』のであり、他方新聞、ラジオ等の報道機関も、候補者の氏名を一般に十分報道したことが想像される。
しかも市議会議員の得票はすべて縁故関係に基くものであつて、前記選挙運動の徹底と相俟ち、候補者の氏名はあまねく周知せしめられ、投票人は家を出る時には既に何人に投票すべきかを決定していたのが実情である。(甲第九号証の一乃至四一の質問事項第一項につき回答者のすべてがこれを肯定していることに徴して明らかである。)
従つて、投票所における氏名掲示の重要性は殆どなく、まして、四十二投票所中、僅か一箇所において一名の氏名掲示脱落があつたとしても、これが選挙の結果に及ぼす影響は皆無というも過言ではない。
(ニ) 問題の前田宣雄候補は、その父が第三十八投票区内において浴場を経営している関係で、この地域に運動を集中したであろうことは想像に難くなく、現に浴場内部にもポスターを貼布しており、前記(ロ)(ハ)の情況をも併せ考えると、本件氏名掲示の脱落の結果、同人に投ぜらるべき票が他に散逸したということは全く想像することができない。
ただ、原判決は、右趣旨の上告人等の主張を排斥する根拠として『具体的事実として、本件選挙の選挙人中には、前記氏名掲示脱落の結果、前田宣雄が立候補を断念したのではないかと考え、他の候補者に投票した者もあつたことは、証人前田宣雄の証言に徴して、これを窺い知ることができるのである。』と述べている。しかし右前田の証言を検討すると、『掲示場に貴方の息子さんの氏名が載つていないから立候補を取止めたのではないか』との質問が前田証人の父になされたのを、前田証人が聞いたと云うのであり、この証言は純然たる伝聞事項に属し、且つ『又証人の氏名が載つていなかつたので、他の人に投票したという話も聞いたので、そんな人が他にもあつたものと思うので、証人の得票に大きな影響があつたものと思います』というにいたつては、伝聞に加うるに、証人に有利な、しかも何ら具体的根拠のない想像に過ぎず、これが信用性は甚だ低いものと云わなければならない。従つて、原判決が右伝聞と想像による前田証人の証言を採用し『他の候補者に投票した者もあつた』という事実を認定したこと自体、すでに採証の法則に違背しているものと考えられる。
(ホ) 仮りに、本件氏名掲示脱落の結果、前田候補に投ぜらるべき票が、他の候補者に投ぜられたものと仮定しても、その票は極めて少数で、且つ前田を除く百八十三名の候補者に分散する筋合である。
甲第八号証熊本市議会議員候補者得票数調を詳細検討すると、問題の前田候補の総得票数が四百八十九票で最下位当選者の得票数八百九十二票との差が四百三票となり、本件程度の氏名掲示の脱落によつて、同人が四百票以上の得票を失つたであろうとは常識では到底考えることができない。問題は最下位当選者と最高位落選者との得票差が十六票であるので、この点に異動を及ぼさないか否かである。
いま、最下位当選者荒木喜市、緒方一人の二名に対し、前田候補に投ぜられるべき票が十六票以上集中すべき確率を数学的に算出することは困難であるが、氏名掲示脱落の結果、前田候補に投ぜらるべき票が前田以外の候補者に投ぜられるについては左のような条件を考慮しなければならない。
(1) この票は、前田候補を除いた百八十三名の多数候補者に分散する。
(2) 従つて、最下位当選者たる荒木、緒方の二名に投ぜられた可能性があると同時に、最高位落選者或は次位落選者にも投ぜられた可能性がある。
(3) 前田候補の掲示がなかつたため、棄権された票もありうる。
次に具体的な結果として、
(4) 最下位当選者緒方一人の第七開票区における得票数二十三票同荒木喜市は七十八票である。
(5) 試みに、本書末尾添付別表の如く下位当選者四名と上位落選者十四名とを得票順に抽出すると、右緒方の第七開票区における得票数は最も少く、荒木のそれも緒方、内藤、友住に次いで少数である。
(6) 右第七開票区の当日選挙人総数は二万一千三百三十人で、問題の第三十八投票区の当日選挙人数は三千八百五十一名、すなわち第七開票区総数の約六分の一に過ぎない。(この点本書未尾添附、昭和二十六年四月二十三日執行の市議会議員選挙の各投票所の投票所の投票状況調参照)
(7) 従つて右緒方、荒木の第三十八投票区における得票は前者が四、五票、後者が十四、五票と解するのが常識である。この得票のすべてが本来前田に投ぜらるべきものであつたと考えることもできない。
(8) 前記抽出の候補者得票総数より、第七開票区における得票数を控除してみると、当選者、落選者の間に異動を生じない。
以上(1)乃至(3)の条件を前提として、(4)乃至(8)の具体的選挙の結果を考察すると、最下位当選者両名のいずれかに、前田候補に投ぜらるべき票が十六票以上集中すべき確率は零に等しいものと断ぜざるえない。いわんや最高位落選者の二十四票の開きを有する友住及び三十票の開きを有する川俣両名を始めとする他の当選人に、本件氏名掲示脱落の与えた影響は絶無に等しく、選挙の結果に異動をおよぼすおそれは全くありえないものと確信される。
右(イ)乃至(ホ)の事実により、前田宣雄の氏名掲示の脱落は、選挙の結果に異動を及ぼすおそれのないことが明らかであるのに拘らず、原判決が、最も信用性の低い証人前田宣雄の伝聞並びに想像による証言のみを採用し、他のすべての証拠を無視して、本件手続の瑕疵が選挙の結果に異動を及ぼすおそれありと判断し、公職選挙法第二百五条を適用したのは、明らかに経験則に違背したか、または採証の法則を無視して事実を認定し、右法条の適用を誤つた違法があり、原判決はこの点においても破棄さるべきものと信ずる。
以上